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淡の間 x CIY 対談(前半)
 
 
K オーナー小山
M マダム
A 淡の間(文中記述フキコも該当)
 
 
K ざっくり出会いから振り返ってみますか。
 
A 元々私は「装苑」でCIYのことを知ったんですよ。2012〜13年くらいの頃に、地方特集みたいなのがありましたよね。
 
K ああ!ありました。確か開店1周年か2周年くらいに装苑(雑誌)の企画の一店舗に選んでもらって…、そうそう、何でうちの店を知ったのかを聞きたかったんだった。
 
A そう。その時はまだ店舗名が今のCIYじゃなくて、旧店舗名の「アパルトメント」だったんですよね。
 
K 我々もさっき予習的に(淡の間との)出会いがいつだったかを振り返った時に、ちょうど店舗名が切り替わった境目ぐらいじゃなかったかと思い出して。
 
A そうですね!ずっと行きたかったんですけど、当時はなかなか県外を跨ぐのが仙台以外ハードルが高くて…(山形在住)
 
K フキコさん、その時は何の仕事?
 
A その時はもうすでにアパレルで働いてましたよ。
 
K その後が佐○繊維ね!
 
A そうなんです。出会ったその年にちょうど転職しました。そしてその後、CIYも店舗名が変わる・変わらないの騒動が起こって…
 
K ちょっとした騒動だったよね(一同笑)もう、騒ぎ。(店舗名改名騒動は)開店して3年目くらい。2010年にオープンして、2年目が震災で、そのぐらいの時期にお客さんが増えてきたんだよね。SNSを始めたのが大きかった。震災の情報収集で始めたTwitterが後の集客に影響し始めて、そこからお客様が増えてきた。(小山が)2009年に移住して、2010年にお店をオープンしたんだけど、その当時マガジンハウスのブルータスで「地方特集」が出てきて、地方が見直されるようなきっかけが生まれて、装苑さんもおそらくその流れで、東京のアパレルだけでなく地方に芽を向けるきっかけになったのかなと。
 
A なるほど、前お店に行った時も話した気がするんですけれど、出会った当時のCIYはインスタグラムもないし、‘10年代にできたお店なのですが、SNSが本格普及する前の『SNS時代・前のお店』だと思っていて、そこがお店の強みだなと思っているんです。
 
K 確かに、自分は移住者というのもあってSNSで拡散しようにも知名度やつながりがないからオープン時のPRは足を使って歩いて各店々にチラシを置いて、みたいなところから始まっているんだよね。今だったら開店の告知は大体SNSで終わらせてしまうところなのだけど。
 
M あとはアメブロですね。
 
K そしておそらく開店2、3年目はようやく地元のお客様がついてきたところで、装苑に掲載してもらったことが初めて県外に向けて知名度を広げるきっかけになった。
 
A 私みたいなお客とか。
 
K そう、その1人がフキコで。言ってもそんなにはいなかったから相当アンテナを立ててくれていたのかなと思っていた。
 
A 当時はまだそんなにSNSが普及してなくて雑誌から貪欲に最新の情報を得てましたね。`10年代の前半くらいまでは特に。その時私が気になっていたブランドがCIYで取り扱いがあって、「OHWELL」っていうシャツの専門レーベル!そのシャツが欲しくて行ったようなもので、買わせてもらったんです。
 
K ああ!そうだった!そんな子いなかったからびっくりした。余談だけど、当時「OH WELL」はちょっと早すぎたね。(笑)シャツだけに特化したパーソナルなブランドって…今なら普通にあるけど。
 
A そうそう、シャツの専門で!素材違いで色々出てて、確かレクトホールで紹介されてて気になってたんですよね。そこまで行かないとダメかなと思ってたんだけど、取り扱いがあって嬉しかった。
 
K 懐かしい。その頃ちょうど、ファッションとアートの境目がなくなって、その延長線としてルックの撮り方にこだわるブランドが増えてきて、うちの店みたいにアートブックとファッションを両方取り扱うようなお店も増えてきた。
 
A そうですね、複合型のお店がその頃から増えてきましたね。(2012頃〜)
 
K その頃アンテナにひっかけてもらって店を訪ねてくれたような人たちは飢えてたんだと思う。まだ地方にそんな形態もなかったし。まあ、実はそんなに(淡の間のこと)覚えてないんだけど。(笑)
 
(一同笑)
 
K すごい印象があったわけじゃないんだけど…2、3年目は必死すぎて、日々のことをあんまり覚えていなくて。
 
A 店名変更騒動で記憶飛んだんですか?
 
K 地元のお客様も少なくて、辺鄙な場所にあって恐る恐る訪ねてくる人が多い中で、フキコはファッションに対する熱量が凄くて、いろんな話をした記憶があって、そんな人がいるんだって救いになっていた記憶が。万人に届かなくても、そういう人に響くのは箔がつくなあと思った覚えがある。
 
A 恐縮です。
 
K 多分うちの奥さん(マダム)とその話して、「山形か〜遠いな!」って。もっと距離が近かったらいいのにって都度話してた気がする。だからいまだに付き合いがあるのは印象が良かったんだろうね。うちのお店の深い部分、コンセプチャルな部分を受け止めてくれる存在として貴重だったから仲良くしていたいというか。
 
A 私はずっと、CIYのお二人にゆくゆくはお店出したいとか、いろんな相談をずっとしてたじゃないですか。20代前半で経験もお金もなくて、自分の行末が分からないからなるべく格好いい先輩方の刺激を受けたくて。でも、私にとってはこの店に出会った時点でおそらくもう叶わないなと思ってたんです。このお店があるから私はもうすべきことなんてないんじゃないかと。なんでもそうなんですけど「この人がやってるなら私はする必要ないや」って、思っちゃうんですよね、何にしても。おこがましいけど、自分にしか出来ないこと・オリジナルなことってなんだろうと10代の頃からずっと考えていました。だから会社員になるとか、どこの大学に行くっていう想像や欲が全くなかった。
 
K でも確かに自分が何かをしたいとかオリジナルになりたい目標があったとして、その中でも尊敬してる店とか人とか場所とかあると、そこを真似して後を追うよりも、「それとは違うのがいい」ってなるよね。その思いが強ければ強いほど、見習うことはあるけれどこのやり方じゃダメなんだと気づく。
 
A そうそう、そうなんですよ。尊敬はしてるんだけど、だからこの人たちが既にやってるから私しか出来ないことはどこで何をしたらいいんだろうと。CIYがあるからこその葛藤をずっと抱えていました。
 
K …そうですか…。褒められると返答に困るね。
 
(笑)
 
A なんか私、途中で在職しながらセレクトショップみたいなのやったじゃないですか、5日間だけの!親友の伊藤ちゃんと一緒に。その時、CIYに協力してもらって服だの写真集だの送ってもらいましたよね。
 
M そんなことあったわ!アクセサリーとかも送ったよね!
 
K そんなこと、あったね〜
 
A ありましたよ(笑)2015年。
 
K それこそ移転するかしないかの頃だよね。まあ記憶遡ると店名変更、店舗移動した激動の時期の境目に出会ったわけだけれど、不可抗力による店名の変更をする時に、降ってきたように「CIY=choice is yours、選択はあなた次第 」と言う店名で「みんな一緒じゃなくていいじゃん、全てはあなた次第だよ」って言う思いをあえてユーザーに委ねることをした。
 
A 正直もう叶わないと思いました。「CIY=choice is yours 」以上の店名を私は考えられないなと。
 
K&M (笑)
 
K 俺も思ったね!自分で!(笑)
 
A その時私はまた一つ、諦めモードになりましたね。(笑)やっぱり私はお店なんかできないんじゃないかって。CIYがなかったらなんも考えずに店やってたかもです。
 
K いいのか悪いのかわかんないね。
 
A いや、私は本当にそれで良かったと思います。やってる人がいることをわざわざやらなくていいだろうと思う話は先ほどもしましたけれど。「CIY=choice is yours 」はかなり格好いいんですよ。私の今の仕事も毎日CIYですよ。(※「選択はあなた次第」の意。)
 
K そう言うことですよね(笑)でも自分は未来が読めるわけじゃないから、その時の現状の話しかできないんだけれど。多分SNSとかで便利になってる反面失われていく個性がどこかにあって、それにすごくモヤモヤしていた。「CIY」に決めた時期はアートブックフェアとか狭いながらも展示に力を入れ始めて、服屋をやっていると言う感覚よりかはもっと多目的な場所を作っていきたいと言う思いがあった。でも、来るお客様からしたら店のジャンルの定義を求められると言うか、やっぱりカテゴライズされると安心するんだよね。どの部屋に入れるか分からないような、黒とも白とも言い難いような…まさに「あわい」のようなね。言語化出来ないものに対しての戸惑いを覚えるお客様もいたけれど、その区別化って本当に必要か?ジャンルのカテゴライズをするべきなのか?個人の感覚として、もっといろいろなものを自由に捉えていてもいいんじゃないか?と言う思いが根底にあったんだね、きっと。みんなから言われる「尖った部分」に関しては誰にも理解されないように逃げ回っていた。まず自分たちがカテゴライズされないように意識していて、「それじゃ理解できない」とうちから背を向ける人が多い中でそれをずっと「悔しい、楽しい」と言ってくれる存在だったフキコのような存在がいるからうちの店は…ま、今日はたまにお互いを褒めあってみようかと言うね。
 
A (笑)そうそう、悔しいって思いはとにかく強かったですね・・・嫉妬じゃないんですけど、ずっと背中を追いかけてました。
 
K 来てくれるたびになんとも言えない、言葉にできない思いを抱えていたよね。「うわ〜!」と喜怒哀楽を表現してぶつけながら「それいいよね!」と肯定している部分と、「本当は自分がやりたかった」と言う思いがあるのかなと言う様子を見ていたね。
 
A 歯痒かったですね。結局私は何もできないとすごく惨めでした。仕方ないんですけどね。結局適性がなかったんだとすごく思います。物販をやること、ファッションの畑で生きていく適性がないと言うことです。「新しいものに興味がない」ことに気付いてしまったので…
 
K そうなの?
 
A ものすごく懐古主義で、既にあるものを掘り下げたいんですよ。今の私は勉強したり本を読んだりすることがとっても楽しくて興奮する、それが自分にとっての新しいことだから。天文学の歴史とか神話の世界とか、星座のこととか、新しいものではない既にある概念を知ることが新鮮で面白く思える。お店で働いてた時も古着が多かったし、どちらかというとクラシックなものが好きで新しいものにあまり興味がなかった。何が元ネタなのかとかオリジナルはどこかというオタク的な目線でしか服を捉えてなくて、そういう方が好きだったんです。だから新しい何かを発掘するということ、いわゆるファウンダー的な目線は持っていない。熱量がないから才能がない。小山さんは完全にファウンダー(発掘者)なんですよ。この、自分の絶対的な熱量の足りなさという点での才能の無さには独立した頃まだ気がついていなかったんです。「好きな気持ちだけでやれる」と思っていたけれど、それを結局私の中では乗り越えられなくて。
 
K それ聞くと俺は全く逆だね。いいものなのは分かるんだけれど、ハイブランドのアーカイブと日本人の若い無名の新しいブランドがあったら、その後者の方にすごく興奮するタイプ。クラシックなものとか学ぶ機会が圧倒的に少なかったし、言われて改めて気付いた。
 
A そこが私と小山さんの絶対的に大きな違いです。
 
K そうかもですねえ。
 
A そうなんですよ。やりたいと思っていたことと自分の能力・資質との差を感じたきっかけです。熱量がそこまでなかったってこと。
 
K いつそれに気付いたの?最近の話?
 
A 会社員を辞めたのが2018年の1月くらいなんだけど、その時はまだ才能ないってことに気付いてなくて、同じ年の5月か6月くらいにはですかね。早かったです。辞めてからの急激な方向転換の最中で…なんでこんなことしてんだろうと未だに思うんだけど、すぐお店出すつもりでいたんですよ。在職中に考えていた気になるレーベルに声かけたり、海外に買い付けに行ったりして、いわゆるセレクトショップのような形態で屋号を建てることを実現しなければと。でも早々に気付きましたね。「これ、向いてない」と。(笑)そこからがキツかったですね。今まで何をしていたのかなと。
 
K そこからゼロになったの?
 
A そうですね。一応それを目標にして生きてきたはずなのに、「できない、どうしよう。これからどうしたらいいんだろう」って。応援して協力してくれてた人もいたんですけど。
 
K めちゃくちゃしんどくなかった?
 
A ものすごい辛かったですよ。そのショックなのか分からないけど、ベジタリアンになっちゃった(笑)当時バイトで知り合いのカフェとパン屋さんで働いてたんですけど、ある日いきなり仕込み途中のものがすんごく臭くなっちゃって。いつも通り準備をしてたら店中がドブくさい!下水の匂いがすると思ったらいつも通りの仕込みをしているだけだったという。結構いい食材なのに。あと、卵を割る手伝いをしてたら急にボウルの中の卵のことを「全て命だ」って思ってしまい、クラッときて、その時に卵を落としてベシャッと床に跳ねてつぶれたのを見た時に、もう卵は食べられないと思ってしまいました。卵や牛乳は臭くて未だに食べられないですね。そんな感じで2018年の夏頃には月の満ち欠けの影響で体調が悪いとか動物性のものが臭くて口にできなくなるような体質の変化が起こっていました。あとは、これは私のせいなんですけど。国道走ってる最中に車が急に爆発しかけたりとか、それでバイト先のオーナーに自転車を借りたのに3日で盗まれるとか。車ありきの場所に住んでたので通勤が大変になって毎朝早起きして…あとおじいちゃんが急死したりとか、色々起こりすぎて踏んだり蹴ったりで。
 
K それ自分ではどう捉えてるの?
 
A まあ今思えば、もうネタなんですけど。あれがなかったら今はないので、こっち側に舵を切れなかったと思います。すっからかんで、お金もなければ才能もなくて、6年付き合ってた人とも別れて、なんにもうまくいかない先行き不安な20歳後半でした。
 
K 本当に全部なくなったんだね。急に全部失うというか…
 
A あとはすごく過保護な家に生まれ育っていたので、一人暮らしもしたことなかったんですけど、初めて一人暮らしをしたのと両親に事後報告をするようになりました。それまでは親の判断ありきだったのが「行くから」「するから」になって、親の反対を振り切ることを覚えて、自分の意思で人生を開拓し始めた。あとは店を出すことは現実的に無理だけれど、なんとか自分の力で海外に行ってみたい気持ちはずっとあったから、何とかして金を貯めようと祖父が亡くなった辺りから思うようになりました。それでリゾートバイトを始めましたよね。
 
K そんなこともあったね〜。でもその時はまだ今の仕事(淡の間としての仕事)をするきっかけには出会ってない?洋服屋の計画はまっさらになっていた?
 
A そうですね。でも動物性のものとか食べられなくなった時期にインターネットで調べたドイツ在住の自然療法家の先生がいて、その方がたまたま帰国して仙台に来られていたから連絡して会いに行きました。そして、来年までお金貯めてドイツに行くから自然療法を教えてください!という流れになり、ホームステイをするためのお金を貯めることになりました。これはかなり勢いというか奇跡的な巡り合わせだったんですが、とりあえずなんでもいいからこれまでの生き方を再構築しなければいけないと思っていました。もう失うものもないし。
 
K この状況でもホームステイに行くとかポジティブな思いがあったんだね。
 
A というよりそれにすがるような思いでしたね、希望というか。
 
K 藁をもすがる、だね。
 
A そうそう、でも反面で「なんでこんな思いしてドイツに行く必要がある?」とも思っていましたよ。毎日こんなにも辛くてドイツが私に何をしてくれるわけ?って。(笑)私はやりたいこともあって、好きな人もいて、ずっと山形にいたかったはずなのに、なんでこんなことになってるのって。他人軸ですよね。
 
K 爆笑
 
A 住み込み始めてからも毎日辛くて悲しくて寂しくて…立派な職場だったんですけど、レストランのホールだったから毎日動物性の料理の香りが芳しくて。超臭いんですよ。
 
K&M なるほど…
 
A くさいし忙しいし辛いし、なんでこんなところにいるんだろう…と約半年間そう思いながら働いてました。しかも同時進行で喋ると、肉が食えないとか天体の影響で体調が悪くなるとか、その他にもその時期には勘が冴え始めるとか意味わかんない不思議なことがいっぱいあった。私は霊とか前世が見えるタイプじゃないんですけど、どうにも感覚が開いてるような感じがあって…でもそれをどう言語化していいかも分からないし、人に言っても信じてもらえないようなことばっかり起こるし、そう、誰に聞いても分からないようなことがたくさん。勇気を出して話してみた知人からはその筋の先生を色々紹介されたのですが、話聞いてもそんなにピンとこないしで。でもその時に友達が連れて行ってくれたタロット屋の先生からは泣かされました。一番半信半疑だったのでもういいやと思って「私のことは大丈夫です」と言いながら友人の様子を見ていたのですが、先生が私に「ここに来たからには意味があるんだから腹を括りなさい」というので渋々受けたら当時の泥水をすするような日々のことを全部お見通しで、溜まっていたものが溢れて泣いてしまいました。その後に「あなた多分向いてるかもね」と言われたのを間に受けてタロットカード買いました。
 
K それも藁を掴むような感じだよね。現状変えるならなんでもしてやる!っていう。
 
A そうですね。でも元々好きだし興味はあったんですよ。おまじないとかセーラームーンとかハリーポッターとか好きな子供だったので、世代的に。
 
K あれ、ここにも・・・?(スタッフのおハナちゃん登場)
 
A 世代だよね、魔女っ子世代(笑)
 
K おジャ魔女とかね(笑)まどかマギカとか?
 
A まどかマギカは通ってないかな(笑)でも、セーラームーンに基礎素養作ってもらいましたよ。天体の図鑑とか神話とか買ってもらって読んでる子供でした。
 
K 今考えるとルーツがあるんだね。
 
A ギリシャ神話とか古事記とか、ゲームの代わりに小さい頃から読書が好きだったんですよ。そしてリゾートバイト先が三重県だったのでお休みの旅に伊勢神宮にお参りに行ってました。とにかくその当時、日々が辛すぎたので…(笑)伊勢神宮はなんかすごいとこで行くと勝手に涙が出るんですよね。お参りして泣いて、赤福食べて・・・みたいなことを月に2、3回やっていた。
 
K 赤福はちゃんと食べんだね。
 
A 外せないですよ。
 
K 俺、親父が三重県出身だから三重に住んでたことあるんだよ。(驚き)T市ね。小学校、中学校は三重にいたからチャリンコで伊勢神宮行ってたよ。
 
A T市からチャリンコで行くんですか?!
 
K そう、ちゃんと内宮・外宮両方ね。
 
(一同笑)
 
K 東京住んでたから明治神宮も行ったことあるけど、やっぱり伊勢神宮は別格だよね。
 
A あれはなんかすごいですよね。
 
K あの土地自体がね。特に伊勢市の人々はそうかもしれない。
 
A 土地の人が伊勢神宮をリスペクトしている姿勢が好きでした。三重県にお伊勢さんがあることを誇りに思っている様子がすごくよかったです。私は当時K島というところに住んでいたのですが…当時サミットなんかもあって話題で、平成最後のお伊勢参りツアーなんかもあってホテル自体が観光客の受け入れで忙しい時期でした。私にとっては平成最後にとんでもない爆弾落ちてきた感じでしたけど。
 
K GINZAmag.comで掲載していた「2020年の流れ」の文章から見ると、個人としても前後でとんでもないことが起こってた時期なんだね。
 
A そうですね。私は1991年生まれですけど同じく1988〜1991年生まれや還暦前後の人(※所謂山羊座土星サターンリターン世代)や、太陽星座が山羊座の人にとっては特に2017〜2020年は人生がひっくり返るような感じが他の人よりも体感として大きかったんじゃないかと思います。約30年周期で社会の大きい仕組みが変わる時期なんですよ。今から30年前もベルリンの壁が崩壊したり元号が変わったり、バブル崩壊したり、まあそれだけじゃないし個人差はあるんですが、そういう社会を揺るがすような周期と自分の運命の流れみたいなものがちょうど絡まってしまったことで私の場合は大変容が起こりました。
 
K 今年は自分たちの意思ではどうにもならないことが起きてしまって、きっかけは人それぞれなんだろうけれど、今までの人生や努力みたいなことでは報われなくなってしまった人がたくさん出てきてしまった。何が言いたいかというと…その状況を乗り超えられる人とそうでない人という二択があるとしたら、それは今までの自分たちの積み重ねによって明確に道が分かれていくものなのかなと。ウイルスのことも初めは中国で発生したことなのにみるみるうちに自分たちの国や世界中が影響を受けてしまって。努力とかそういうことでは太刀打ちできない外的要因や運命の前に自分たちはどうすることもできない…そんなことを強く感じてます。
 
A 「自分たちがこれまで作って来た土台というもの一体どんなものだったのか」というのを残酷なほど見せつけられましたよね。例えばオリンピックに出るために努力し続けてきたアスリートや『2020』というなんとなく縁起の良さそうな数字が思わせる区切りに合わせて準備をしてきた人がいっぱいいたはずで、その後の新しい時代が「良いものだ」と信じて疑わない状態…勘違いとは言わないけれど、無条件に期待していたわけですよね。
 
K 結構手放しでみんなポジティブに考えてたね。数字的な見栄えだったり、「キリがいい」とかそんな感じで “ 2020ってなんか良さそう “ みたいな。神様からしたら「別になんも言ってねーじゃん」って感じなんだろうね。
 
A そうなんですよ。「勝手にアンタらがそう思ってただけじゃん?」って、感じでしょうね(笑)そういうものを見せつけられた時に改めてそれぞれの本質が炙り出され、意識が問われたと感じます。それでも適応して生きていける人、過去にしがみ付いてしまう人、立ち直れない人、色々います。私だって2018年からの色々がなかったら今頃どうなっていたかと思いますよ。そもそも良いとか悪いではないはずなのに、「良いか・悪いか」の二極化で考える癖からは脱却できていなかったでしょうね。
 
K 因みに、2018年以降の転換期から今に至るまでの間に修行をしたと思うんだけど、「ただファッションが好き」みたいな状態からGINZAで連載をするまでに至るということはどこまで想像できたことなの?
 
A いや、ミリもないですよ…(※GINZAは今も昔も変わらず超憧れの大好きなメディアです。今が本当に幸せです。)
 
K そのうち食えるようになったらいいな、みたいな?
 
A 全く想像できなかったけどそれも何というか、さっき話した「誰に聞いてもよく分からなくて辛い期」の頃の、満月だから体が動かなくて仕事行けませんとか高級食材から下水のような匂いがするとかその他色々なこと、言っても虚しくなるし共感されないですよね。そんな自分で消化するしかないようなことを抱えて生きていくのが辛いからなんとかするしかないとようやく腹を括ったのが2019年の1月頃で、占星術の勉強を始めました。
 
K じゃあ仕事にするというよりは自分の救いのために「それ」にしがみ付いたんだ。
 
A そうそう、本当は誰かに解決されたい・教えてもらいたいと思ってたんだけど、自分で知ろうとしないと分からない仕組みになっているのかもしれない、これは自分でどうにかしなければならない問題なのだと感じてきたんです。それまでは自分で決めたはずなのに情けない話なのですが、辛すぎて親に手紙を書いたりしてました。留学金を出して欲しいという。あと前澤さん(前ZOZO社長)のお年玉プレゼントに応募もしましたよ。どちらもダメでしたけどね!
 
K それ相当だね!(一同笑)
 
A フォローアンドリツイートしましたよ!当然ダメだったけど(笑)
 
K それぐらいどうにか打破したい一心だったわけだ。
 
A そう、でも親も前澤さんも全然協力してくれないから…(笑)やっぱり私が自分でこの運命を開拓しなければならないんだ、この辛さを経験しなければいけないことなのだと。自分で運命を開拓してもぎ取らなければいけないことがあると腹を括るきっかけになりました。それが2019年の1〜2月くらいで。それで初めて自分のホロスコープを読んだ時、家にWi-Fiがないので休日は朝からコメダ珈琲とかにいたんですけど、そこで泣いてしまいましたね。
 
K 一人で?(笑)
 
A そうですよ、たっぷりコーヒー片手に。今こんなこと言うのも本当に恥ずかしいけどなんか感激しちゃって。しかもこれまで通ってきた道、例えば子供の頃友達居なくて本とか読んで得た知識があってこそ理解できる世界であることも嬉しくて。それからタロットも含めて並行して勉強してて、寝食忘れてのめり込んでました。それから不本意なことに色々あって3月くらいに山形に帰ってくるきっかけがあって、何も達成してないのに何をしているんだろうとまた絶望して…。とりあえず落ち込んでも仕方ないから、余計なことも考えたくないし3〜4個くらい仕事を掛け持ちしてドイツに行くまでなんとか働いていました。当時、三重に行ってそのままドイツに直接向かうつもりだったので自分の持ち物なんて段ボール2つ分しかないような状況でした。本当に何も持たない状態で行ったはずなのに、私は何してるんだろうと。で、がむしゃらにやってる時期に友人がスナックのバイトを紹介してくれて、そこのママに身の上話をしている時にたまたま占いの話をしたら興味を持ってくれて「あなたの占いは人を幸せにするからうちの店でやって欲しい」と言ってくださったのがきっかけとなってチップ制での占い師仕事がスタートしたんです。
 
K 仕事にしようと思ったのはそれくらいからか。
 
A そう。2018年からずっと絶望してましたけど、成果を遂げずに山形に帰ってきたときはとうとう何もなくて、もうゼロだから、振り絞るのに必死で。でもようやくそのママとの出会いで「自分のやることをやって循環する」という体感が分かりました。手応えがあって、なぜ自分がドイツに行かなければいけないかというのも見えてきて、これから自分が何をすべきかが分かりました。なので渡航する前に全ての仕事を辞めて、帰ってくるまでにもっと基盤を整えるつもりでドイツに行きました。今できることとドイツで学べることを組み合わせたらきっとうまく行く気がすると。
 
K じゃあ一番最初に話していた「オリジナリティ」ってのがようやく見出せるかもって思ったんだ。
 
A そうそう、ちょっと恥ずかしいんですけど…私ずっとファッションがどうとか言っていたのですが、ファッションというのは自分自身がとても自信がなくて自己肯定感が低いがための装飾だったのだと気づきました。自己武装のための。でも、それらも全て丸裸にしていくと幼少期の夢である「魔法使いになる」というのが見えてきたんですね…(笑)でも、両親とか厳しくて何をするにも真っ向から反対されてきたし「私の好きなものにはなれない、受け入れてもらえない」という幼少期からの諦めが根底にあって。占いごとに関しても好きなのに「きな臭いと思われるんじゃないか」という恐怖心があったんですが、そのように自分の中で閉じていたパンドラの箱のようなものにすっからかんになって向き合えたんです。すみません…意味わかるでしょうか、恥ずかしいんですけど。
 
K いや、素敵な話ですよ。とても。
 
A ありがとうございます。「怖い」と思うものに向き合う覚悟がようやくついた時、求めていたのは自分の中で無意識にずっと温めていたことだったと気がつきました。それで、元々お店をやりたいと思ってたくらいだったのでこれもまた大切に温めていた屋号があって、それが「あわい」にまつわるものでした。接客をしていた頃から自分の仕事は何かと何かをつなぐものだと思っていたので、淡(あわい)なのか、間(あわい)なのか、はたまた平仮名なのか、ずっと考えていたんですがその屋号に適した何かをできる自信がなくてピンと来ていませんでした。でもドイツにいた時にピンときて「見えないあわいを繋ぐものになろう」と思って「淡の間(あわいのま)」になりました。くっつけたんです。さんずい(水・女性性)にほのお(火・男性性)の『淡』は、どこの国の言葉でも『光』という言葉になります。あわいを繋ぐことは光になることなんだと思いました。ドイツにいた時間なんかほんのたったの数ヶ月なんですけど、それまでの生まれてからこれまでの時間を仕上げるための時間が濃密で…あわいのあいだを繋ぐための時間だったと。自分の光と闇、両極を重ねるための時間をこれまで過ごしてきたと感じた時に「淡の間にしよう」と降ってきました。
 
K ふうん・・・・・・・・
 
A 「ふうん」て・・・・・・
 
K いい話でした。でも本人は大変だったね。
 
A うん、それで2019年の7月に屋号立ち上げてスタートしました。その数ヶ月後にギンザに寄稿するお話があって、それが結構色々な人に知っていただくきっかけになりました。ずっと対面でのカウンセリングにこだわっていたので「2020年はいろんな場所にいるお客様に会いに行けたらいいな」と思ってたけど、こんな状況になってしまったので今はリモートに適応しましたが。
 
K そうか…本当にお疲れ様。ちょっと長くなったけどひとまずこれが自己紹介って感じだね。
 
A はい!すみません。ありがとうございます。
 
K まあでもこういう流れがあったからこそ、うち(CIY)としては「淡の間」になるまでのフキコとの関わりが長いことあって、今回企画をするきっかけに繋がったわけだけれど、ファッションが好きだったフキコだからこそわかることだと思うけど、お客様は“ファッション“だけではなくそこをパイプにして店側に救いを求めてくることがあるよね。自分は元々移住者で盛岡で根を張っていた訳ではない故にコミュニティ外にいることがあるから、うちをちょっと聖域みたいな扱いをしてた人たちが「ここでなら言えるな」みたいなことを話していく感じ。だから服を売るだけではなく「ものを通して話す」ようなコミュニケーションをしてその人の背中を押す、踏み出せなかった一歩を踏み出すきっかけになるようなことを生み出している。接客業ってそういうところがあるよね。自分はもともと、世界の情勢やこれからの流れのようなものには学がないなりに興味があって、ファッションやアートはその世界からは隔離されているように思われるけどすごく密接につながっていて一緒に変化している事も知っている。だからこそCIYで洋服等を売ることはビジネスとしての反面、人と関わるツールとして大事にしていきたいと思っている。特にこれから何かをしたいと思う若い人たちに対してうちが影響を与えられる場所や人でありたいという思いは強くある。他とは目標やあり方が違うかもしれないのかも。いきなり「服屋なのに占い?」ってびっくりする人もいるかもしれないしね。でも自分たちの中では過去・現在・未来のことを知るのはファッションのことも含めて必要なこと。そもそもファッションの力だけで何かを変えられるとは思っていなくて、先ほどフキコが言っていたようにそれらを装飾品として捉えるのか、武装するためのものとして捉えるのか、感じ方は多かれ少なかれ皆それぞれあるよね。特にこういう世の中だから、うちの店が取り扱う物事が関わったことで「その人」の可能性を引き出すきっかけになるのではないか、その可能性を秘めているのではないかなあということを話したい第二部なんです。
 
A うん!